被災者は復興したか
〜復興政策を問う〜
社会権規約委員会・日本政府報告書審査の直前の7月24日、国連社会権規約委員会・日本担当委員のアイベ・リーデルさんが来日され、兵庫県弁護士会館で講演された。講演会終了後、アイベ・リーデルさんのところに寄っていった人々の中にM. M.さんを見つけた。後日、国連社会権規約委員会あてにM. M.さんが手紙を書かれたということをお聞きして、原稿をお願いした。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。(ブッタ)
今夏の明石市主催の花火大会では、11人の死者と多数の怪我人を生んだ。三の宮・朝日新聞社に、参議院選での被災者生活再建支援法の改正意向を、各党に行った調査結果を持ちこんだ帰りに、事故直後の大蔵海岸前を通った。(この海岸は、市民の反対を押し切って、埋め立てられたものである。)
普段は、快速が通過する朝霧駅だが、この日は臨時停車したかと思うと、花火客がドカドカと乗りこんできた。皆一様に憔悴している様子で、そこら中にへたりこむやら、持ちこんだペットボトルを開けるやらで、事故のことも知らず、なんちゅう行儀が悪い連中かと眺めていた。
しかし、この花火大会といえば、震災2年目の時が忘れられない。未だ、先の目途も立たず、暗澹たる思いで仮設生活を送っていたが、遠く東の空に、ドカスカと気前よく打ち上げられる花火と、その音が、まるで自らの境遇をあざけり笑っているかのように感じた。
罹災した者とそうでない者の落差。岡田明石市長は、震災3年目の新年の挨拶を、<ミニコミ明石>に残している。“(略)しかしながら、未だ仮設住宅での生活を余儀なくされておられる方々や、震災で受けた心の痛みが言えず、ケアを必要とされる方々も、いらっしゃいます。(略)今後も引き続きケアネットや、公的支援の拡充など、被災者の生活再建に向けて全力で、取り組んでまいります。(云々)”
こんな美辞麗句とは裏腹に、岡田市政が被災者救済に熱心であったことはなかった。
1年は耐えたんだろうが、こうして2年目の夏まつりには、花火大会を決行し、当人は、明石プリンセスの審査までやっている。この花火大会は、被災者を元気づけるものだと称されていたが、うつ病状態にある人間に、<頑張れ!>コールが禁句であるように、それは、我我被災者の頭をハンマーでなぐりつけるようなものだった。
震災1年目の冬、仮設居住環境が悪いと、マスコミに叩かれている。明石市でも、とってつけたように、代行業者が調査に廻ってきた。部屋が、棟の東端で、壁と畳のすき間から、外の草が丸見えだった。調査員に、そのことを訴えると、100円程のクラフトテープ1個くれた。“そのすき間を、これで塞いでおいて下さい!”と言われた時は、本当にあいた口が塞がらなかった。この処置で4度の冬を凌いだものである。
震災7年を前に、行政はやたら復興宣言をなし、被災者に行った支援を誇大宣伝しているが、多くの罹災者は、それらを空言のように、苦々しく笑っているだけだ。
9月下旬、久しぶりに弓の試合に出た。“最近、顔を見らんかったけど、どうしてたの?”と弓仲間に尋ねられた。“
いや、被災者の公的支援の運動が忙しくて…”
“えっ、まだ、そんなことをやっているのか、もう済んだ話ではないの”“復興宣言をしているのは行政だけの話で…。行政がたいしたことをしてこなかったもので、まだやらんとしゃあないねん。”と応えた。
多くの人は、被災者生活再建支援法みたいなくだらない法律ができてしまったばかりに、すでに、被災者への公的支援問題は、終了したと考えているのだ。
又、仮設に住んでいたので、今まで行政から、手厚い保護を受けてきたものと思われがちなのだが、住居費が無料で助かるぐらいのものであった。
ボランティア支援についても、我我の高丘3丁目仮設では、明石市が一向に、周辺の草を刈らないので、誰が頼んだものか、若い男女のグループが一度草刈りに来てくれた程度であった。
第一、日本人の価値観すれば、見知らぬボランティアが仮設の戸を叩き、何かお手伝いしましょうか?”と言われても、訝しがるだけだろう。まして男なら、何日もめしをくってなくても、“別にないわ!”と答えるに違いない。“たすけてくれ!”なんて、おぞましいことは口にしない。
現に小生にしても、いつかの歳末、ある団体のオバサンが、買い物袋にいっぱいに詰め込んだ食料品を、まるで乞食にでも手渡すかのようにするので、“そんな訳の分からん団体に、もらう筋合いはない。もって帰ってんか!”と怒鳴ったことがある。
ハンド・メイド・ハウスを手掛けたこともあって、何人もの職人に出会うことになったが、腕のたつ人程にプライドも高く、人の世話になることを恥とする昔の日本人気質を有している人が多かった。
もし彼等が震災で怪我でもして職を失い、生活の目途が立たなくなれば、この自然災害被災者に対する社会保障制度が、まったくでたらめな国では、酒を飲んで、自らの身体を潰しにかかるしかないだろうと思ったことがある。
仮設で300人以上の孤独死、餓死、自殺を生んだ背景には、こうした日本人のもっている価値観を無視してきたことも、その要因の一つに挙げられるような気がする。
行政は、無闇に仮設居住者にアンケート調査を繰り返すばかりで、その結果は、低所得者の貧乏人が多く、健康状態では、中年男性にアルコール依存症の傾向が目立つといった類のものばかりを発表して、被災者の口を、余計に重くさせるばかりであった。
これらのアンケート調査等で、被災者はプライバシーを暴かれ、統計の数字に貼り付けられ、分析されたが、そこから何かが始まったかといえば、何も起こらなかった。
現在、明石市との震災関連での接点は、父名義で借りた災害援護資金貸付金350万円の償還についてだ。昨年春、据置期間が過ぎたが、職もなく、収入もない身上ではどうしようもなく放っておいた。
すると、同7月25日に、明石市福祉課から催促の電話があった。家作りに、持ち金を使い果たしてしまった時期で、まったく金もなく、何週間もめしを食っていなくて、ベッドで横になる日々が続いた頃だった。
“災害援護資金貸付金の償還期日が過ぎているのですが、支払って戴きたいんですが?”と担当の係長に強い口調で言われた。“この頃、めしも食っていない状態や、そんな金はないわ。それに、父も死んで、保証人の伯父も死んだなかで、なんで息子のぼくが支払う必要があるんや?”と言ったら、“遺産相続をされている以上は、あなたに支払ってもらわないと困ります。これはレイクと同じです。”(貧乏家族の財産なんてたかが知れているんだが...)福祉課の係長が、レイクを公言するのには驚いたが、考えてみれば、限りなく0に近い貯蓄の利率のなかで、この貸付金の3%の高金利は、高利貸業者を自認してもおかしくない。
まあ、これが岡田市長の言う被災者支援の実態である。
この係長は、その後、2ヶ月に一、二度のペースで自宅を訪問してくれるようになったが、話はいつも平行線である。行政側は、被災者の生活復興なんて、まったく眼中になく、貸付金を、どうしてでもいいから、持ち帰ることに終始する発言を続けている。
保証人であった元中学校校長の伯父の死後、同い年の従兄弟が、その家督を継いだ訳だが、この若い仕事熱心な係長は、そこまで督促状を送ったり、電話まで掛ける始末である。
兎も角も、明石福祉課には、“父名義の、保証人も死んだ貸し付け金を、生活困窮者の息子が支払う義務があるかどうか、裁判で問うてみたい。しかし、裁判費用がないので、あんたら行政が、そこまで言うなら(名義変更を拒絶したら、それは人の道に反する行為だとまで批判された。)ぼくを裁判所に引き立ててくれ!”と懇願している。
裁判の勝ち負けは興味がないが、行政のやってきた被災者支援の実態や、その虚々実々を、公文書に残しておきたいという強い欲望がある。
明石市福祉課、兵庫県復興局は言うに及ばない。被災者を等閑にして、自らの政治基盤である土建屋に、金をふりまく復興政策を最優先させ、何千万円か何億円か知らないが、退職金を懐にほくそ笑んでいるんだろう貝原元県知事。神戸市長選、県知事選同様に、花火事故を起こしたばかりに、次期市長への権力委譲を魂胆しているんだろう岡田明石市長。ついでに、被災者への公的支援を否定した時の総理大臣、社民党の村山君も御出廷戴けるような裁判は、できないものか?
大地震を起こした母なる大地と共に!
ミタクィエ オヤシン
M. M.(SCI明石)